とう かい しんそなえて かわ しんから まなぼう

かわ しん 体験たいけん調査ちょうさ その2

ホームページ「三河地震の記録・わすれじの記」を活用しての学習展開を形原中学校2年生が取り組んでくれました。
形原は三河地震での被害が大きかった地区のひとつです。子ども達の家族の中には、当時被災体験された方も多くみえます。
その「被災体験」を聞き取り、レポートにまとめました。ここには、その一部を掲載させていただきました。。


形原町北辻 浅井さん(74歳)から聞いた話   Mさん

 おじいさんは小学6年生だった。おじいさんが寝ているときに地震がおきて,家がぺしゃんこになってしまった。おじいさんは家の下敷きになったけれど,助けてもらった。おじいさんたちは桑(くわ)畑に逃げた。桑畑なら根っこがはって,一番安全な場所だった。しかし家がつぶれて入れる状態じゃなかったから,仮小屋に1年ぐらい暮らした。
 仮小屋は自分たちで作った。今だと自衛隊とかが仮設住宅とかを貸してくれるけど,昔は自分たちで作らないと誰も貸してくれないし,戦争中だったから誰も貸してくれなかった。だからおじいさんたちは船などにわらなどで屋根などを造りそこで暮らした。でも,おじいさんのお父さんたちは戦争に行っていたから,おじいさんのお母さんと作ったらしい。
 なくなった人々の死骸は神社や寺や形小に並べられた。おじいさんたちの小学校に来た兵隊さんも建物の下敷きになって死んでしまった。おじいさんの近くの家の人たちは,みんな助かったけれど,死んでしまった人はたくさんいたらしい。自分の家はぺしゃんこになって,入れるような感じではなかった。




形原町下市場 U畳屋さんから聞いた話   Mさん

 おじさんは地震の時に戦争で兵隊に行っていた。おじいさんの奥さんは子どもが産まれるときで,寝ていたそうです。でもこの地震の知らせはおじいさんたち兵隊に割と早く知らせが入ったそうです。おじいさんは,すごく家族のことが心配だったそうです。



田原市 宮地さん(69歳)から聞いた話    Mさん

 おばあさんは小学1年生だった。渥美に住んでいた。地震の被害はそんなにひどくなかった。「形の原の方はすごく被害が出ているそうだよ」と当時お母さんから聞かされたそうです。家の近くの竹藪(やぶ)に小屋を作って,そこに住んでいたそうです。竹藪も根がたくさんはっているから地割れしても少ない被害ですむためだそうです。



三谷町 祖母の知り合い(70歳くらい)から聞いた話   Iさん

 その時三谷に住んでいたけれど,被害は少なかったけれど,形原とかはすごかった。地震が来るとき,ゴトゴロ音が鳴ったりもしていた。ピカピカ空が光ったそうです。星の光り方が変な光をしていた。



形原町南辻 家族から聞いた話   Mさん

 私の家の横の道はカネキチの方まで昔は坂でなかったけれど,地震で坂になってしまったそうです。だから家の畑も段ができています。



形原町前野 祖母から聞いた話  Iさん

 このあたりの道はもともとは水平の道だったそうですが,地震のせいで山みたいに盛り上がってしまったそうです。他にもこの道のあたりは地割れがいくつもありました。





祖母(76歳)から聞いた話  Oさん

 2階で寝ていて下に降りようとしても揺れて降りれなかった。余震がくるから外で「ながもち」という物の中に兄姉2人で揺れがおさまるまで何日かそこで寝ていた。自分の家は崩れたのに周りの家は崩れなかった(そんな簡単に崩れる家ではなかった)。その時に台風もよく来た。



祖母(90歳)から聞いた話  Oさん

 1/13以降の余震はすごくひどくて,夜もなかなか眠れなかった。戸を開けておかないと余震で動かなくなってしまうから,戸を開けて寝た。
 30日間,ずっと小屋にいた。その小屋(倒れそうになったこともあった)がすごく寒くて,30日間がとても長く感じた。30日を過ぎて家に戻ってもまだたまに余震が続いていた。ひいおばあさんの家は倒れなかった。
 1/13以前は,たまに揺れが小さい地震がおきていたらしい。でも1/12はすごく静かで何も起こらなかった。だからみんなですごく心配していたら三河地震がおきた。



祖母(73歳)から聞いた話  Yさん

 三河地震は朝起きて,おばあさんの家は1階建てだったからつぶれていなかったけれど,弟がその時のおばあさんの家で寝ていたから,その時のおばあさん(大ばあさん)と弟は死んでしまいました。
 外に布団とか屋根になりそうな物をお父さんが家の中から持ってきてずっと外にいた。他の家はほとんどつぶれていた。「助けてくれー」という声も聞こえたそうです。



一色町 田中さん(72歳)への質問    Hさん

Q:地震前の前兆は?
A:12/31ぐらい大きな地震があった。その後も小さな地震がちょこちょこあった。

Q:地震の後の余震は?
A:小さい地震が1日にたくさんあった。

Q:寝泊まりはどこでやってたんですか?
A:三谷の方から知り合いが来てくれて,わらで畑に小屋を造ってくれて,そこで寝たりした。冬で寒かったけど,結構わらでも暖かかった。

Q:特に一番苦労したこと,嫌だなあと思ったことは?
A:お風呂に入れなかったこと。農家だったので,食べ物はすごく足りた。

Q:ご飯は具体的にどんな物でした?
A:野菜が主で,生で食べるってことはなかった。

Q:怖かったこととかなかったんですか?
A:一番怖かったのは近くの工場がミシミシ・・・・ドスーン!!というふうに倒れた時。本当にあれは怖かった。

Q:学校はどうなっていたんですか?
A:当時は形北小はなかったので形小に避難してくる人がいっぱいいた。死者も形小に集められた。

Q:わらの小屋の生活はどれぐらいの期間でした?
A:1か月〜2か月ぐらい。



形原町東上松 祖母(70歳)と近所のおばあさん(75歳)から聞いた話   Sさん

 地震がおこった年は"トリカイ"がよく採れたそうです(今年はトリカイがよく採れる年だそうです)。
 わらで小屋を造り,2か月ぐらい住んだそうです。下市では,共同で住んでいた(4区の人がたくさん来た)。
 2・3日前に三ヶ根山が噴火した。
 下市に津波が来た。
 1分団全滅 音羽全部の家が倒れた



祖父(68歳)から聞いた話  Hさん

 昭和20年1月から約2か月間地震が続いた。当時は戦争中で,地震の中では桑の葉を食べていた。今の音羽橋附近と形原駅は平行線だったけれど,地震で上下の差ができた。断層があった現場は家の下敷きになってみんな死んでいた。
 山からとってきた松の葉を「ゴ」と言って,火をつけて木を割ってこれを「ワルキ」といって湯を沸かし風呂に入った。これを五右衛門風呂という。
 長い余震が続いたから,必要な物だけを置いて,立てたり、高い物は置かず,2ヶ月間ぐらい暮らした。





たつみストアー付近のお年寄り(70歳くらい)2〜3人に聞いた話  Oさん

・寝ているときに起きた地震だったから下敷きになりそうだった。
・戦争中に起こったから,誰も手助けはしてくれないし,今のように食べ物を食べられないし,仮設住宅も自分たちでつくった。今は自衛隊の人たちが仮設住宅をつくってくれるから,ちゃんとした家という感じだと思うけど,昔は比べものにならないくらいだったと思う。
・亡くなった人の死体は神社や形原小学校のグランドなどに並べられたらしい。
・戦争中だったため,兵隊として行っていた人もいるらしいが,情報はすぐにまわってきた。
・兵隊だった人たちは,家族のことがとても心配だった。
・仮設住宅の例として竹藪(やぶ)に小屋をつくった人もいるそうです。



形原町南辻 祖母(69歳)から聞いた話  Oさん

 寝ていたら「ドドン」「グラグラ」と大音が鳴り,激しく揺れてびっくりして起きたが,足をとられて立っていられなくて,そうしたらタンスが倒れてきてその下敷きになり,少しあった隙間から一生懸命がれきをどかして外に出た。2階建ての家の2階で寝ていたので,お兄さんもお姉さんもみんな助かったのでよかったが,1階で寝ていたお兄さんは鴨居(かもい:大きな柱)の下敷きになって死んでしまった。(中略)一面ががれきの山だった。
 地震によって道が坂になってしまった。それに地震の断層があった。(中略)家が壊れてしまったので,明るくなってから家の中から少しずついろいろな布団とか毛布とか大事な物などを外へ運び出した。ござを引いて外で寝た。余震もあってすごく怖かった。



形原町会下 祖母の友人(81歳)から聞いた話  Oさん

(8人兄弟で,兄たちは戦争に行っていて,上から4番目)
 お父さんとお母さんは豆腐屋で,その日も豆腐を作っていたところ,朝早くお父さんとお母さんが「地震だ」とさけんだ。「ドドドドー」という地震の音,地響きが聞こえた。逃げようとしたけれど,家がミシミシして,下が壊れてしまった。豆腐屋だったため樽が何個も置いてあったので下敷きにならなかった。樽と樽との間のすみから出てきた。でもまだ余震が続いていたので,建物の離れた所の外で寒い中いた。
 隣の家を見たらぐちゃぐちゃになってしまっていた。その家では赤ちゃんとお母さんがいて,お母さんが赤ちゃんを抱いていた。(中略)余震があって大きな木をどかせる事ができなかった。何時も過ぎてがれきをどけてみるとお母さんと赤ちゃんは死んでいた。(中略)まだ余震が続いていたので防空壕の中で寝ていた。
 小学校ではけがの手当などをやっていた。死んでしまった人を寝かせていたみたい。配給もあった。井戸で水をくんでいた。





形原町中戸甫井 磯部さん(69歳)に聞いた話  Iさん、Mさん

〔前日の様子〕
・何ら変化はなかった。全くわからない。
・津波もない

〔当日の様子〕
・国からの補助はないから自分たちで壊れた家を直した。
 →3世帯で1つの部屋程度
 →自分たちの家の窓を持って行った
・余震が何回もあった。
・窓が開かなくなった。扉が開かない。割れたガラスの所から外へ出た。
・津波はなかった。
・中戸甫井のあたりはあまり被害がなく,7分団がひどかった。傾いている家がたくさんあった。
・避難所はなかった。

〔直後の様子〕
・地震の後,家に戻って服とか取りに戻った。その時余震が来て家が余計に傾いた。
・七輪で火を炊いて生活した。



形原町中戸甫井 磯部さん(69歳)に聞いた話  Mさん

 夜中に地震が来てひどく揺れた。それまではいつも通り。家が傾いたりして窓が割れたりドアが開かなくなったため外に出るときは窓から出た。甫井の方は家は倒れなかった。
 その後余震がおきたため空き地で家のような物を雨具で作り何人かで暮らした。
 食料などは家に取りに行き,明かりは「七輪」を作った。避難所もなく,補助もなかった。倒れた家は自分たちで建て直していた。津波はなかった。



神ノ郷町 吉倉さん(84歳)に聞いた話   Mさん

 家は壊れなくて無事だった。余震が続いたので,1週間ぐらい近くの広場で避難生活。食事は戦争中のためお金があっても買えない時代だったので配給があった。避難中印象に残っているのは寒くて,一度雪が降った。
 1か月前の東南海地震のゆれは感じなかった。



栄町 原田さん(82歳)に聞いた話   Mさん

 家の中にいるとかなり揺れだした。中に閉じこめられないように雨戸を1枚だけ開けて家族3人で逃げた。治まったときは,家に必要な物だけを取りに行った。余震がかなりあり家に戻れなかったので蒲郡ホテル(現プリンスホテル)の下の空き地で避難生活をした。食べ物は配給。水は栄町の自宅の井戸までくみに行った。水道は止まってしまった。井戸のない人に水をくませてあげた。しばらく避難生活だったけど,幸運にも雨が降らなかった。そして落ち着いてから今の場所(新井形町)に家を建てた。
 前日は全くわからない。



祖母(74歳)に聞いた話  Kさん

 地震が来る前の年(昭和19年)の12月に大きな地震があって(余震)戦争中なので防空壕(ごう)へ避難した。だが祖母の記憶によるとそれ以外の余震はあまり大きくなかったらしい。
・断層はちょうど祖母が住んでいた所辺りで折れ曲がったらしい。
・津波はあまりなかったらしいが,水位が上がった。
・地割れは(現天神橋バス停)を上がった坂の所。
・余震は2〜3か月ぐらい感じた。
・地震前は気分が悪くなった。
・三ヶ根山の上の方がピカピカ光っていたらしい。



本町 中野さん(75歳)に聞いた話  Mさん

 祖父の話だと,最初は横に大きく揺れて,次第に縦揺れに変わり激しく揺れたそうです。家で身支度をしていても当時は家と共につぶされる思いだったそうです。
 2つの大きな地震の前後たびたび大小の地震が起こり,家の周囲の畑や空き地に小屋を建てたり,道路に寝て過ごした人もいました。



金平町 近所の人に聞いた話  Kさん

・金平農協の少し上に行った所からの坂→元は平らだった
・三叉路のあたり→元は平らだった(今は坂になっている)
・金平郵便局あたりの土地→平らだったのが丸っこくなっていて今の状態になっている。
・郵便局の周りや家の近くの坂の周りに崖が整えてあるところが多い。
・形北小の近くに畑や田んぼがたくさんある所があり,その地形が地震によってできたもの?





金平町 平岩さんに聞いた話  Kさん

 地震の揺れで起きたそうです。静まって外へ出てみたらものすごくあれていたらしいです。次の夜からみんなで倉庫で寝ていたと聞きました。当時電話がある家はものすごく少なくて,クリーニング屋みたいなものをやっていた平岩さんは,役場と連絡をとるために役員の人に電話を貸してあげていたそうです。地震があった翌日に死人が空き地に並べられていたそうです。たくさんいすぎて並べきれなかったそうです。平岩さんはその時本当に怖かったと言っていました。地震が来てから何回も余震があったそうです。



浜松の祖母に聞いた話  Iさん

・音羽の信号の所と平谷の死傷者が多かった。
・形原から西浦へ通じる旧道の東根崎から東上野あたりまでは下が岩盤のため家の倒壊などがなく,あっても最小限の被害だったらしい。



竹谷町 父の実家の近所の人(78歳) に聞いた話  Kさん

〔前日までの様子〕
・覚えていない
・天気は晴れ

〔直後の様子〕
・山の方へ逃げた
・空襲だと思った。
・みんなで湯を沸かした。

〔その後の様子〕
・三谷は被害が少なかった。



幡豆郡鹿川 三田さん(78歳)に聞いた話  Sさん

 昭和19年12月7日,父親と薪を拾いに行き,そこで食事中にグラッときて,目の前の山が横に動いた。これが東南海地震で,前ぶれはなかった。帰り道,三ヶ根観音の木堂以外は全て倒れていた。
 そして1か月後三河地震がおきた。前ぶれに1週間ほど前の夜,地鳴りがあり,三ヶ根山の方が光った。その頃,形原小に200人ほど兵隊が戦争の関係で来ていて,その中に栃木県出身の方がいた。その人は前ぶれを見ると「これは大地震だ」と言ったので,皆家を出て,外に小屋をつくってそこで暮らした。しかし1週間たっても何も起こらないので,ある人が「あれは新兵器の開発だったんだ」とデマを流した。戦争中でそっちの方が現実的だったのでみんな新兵器説を信じ,家に戻った。その日に三河地震がきた。直下型地震だったため,夜中で目が覚めたとき,自分は宙に浮いていたという。栃木の人は「この地震は60年ごとくる」と言ったらしい。
 親に「親戚の家を見てこい」と言われたので,すぐ真っ暗の中をつぶれた家の屋根を通っていった。



金平町長根 三田さん(77歳)に聞いた話 Sさん

 昭和20年1月13日寝不足だったのでかなり熟睡していたため,家がつぶれても気づかず寝ていた。物が落ちてきたので起きたが,身動きがとれなかった。隣で寝ていた祖父は箪笥(たんす)につぶされ圧死。
 地震は余震のたびに地鳴りと光が出た。



形原町北古城 鈴木さん(69歳)に聞いた話 Sさん

〔前日〕
 三ヶ根山の方がゴォーゴォーと山鳴りしていた。戦争中だったため,戦っているだけだと思った。

〔当日以降〕
 家が全てつぶれてしまったから,テントのような物をつくって目立たぬよう葉などをかぶせてその中で生活。冬だったためとても寒い。



幡豆郡鹿川 三田さん(81歳)に聞いた話  

〔地震前の様子〕
 三ヶ根山がピカピカ光っていたらしい。空襲という噂もあるらしいけど,空襲ではなかった。

〔地震発生時〕
 地震が起きたときは寝ていて,ドーンという音がしてから大きな揺れがきた。逃げようとして戸を開けようとしたけど,全く開かなかった。家にあるいろいろな物がたくさん倒れて,家の中がくちゃぐちゃになった。

〔地震後の様子〕
 1日中余震があって,何度か大きいのがあって家には入れなかった。たくさん家が倒れていた。軍の人たちが指示を出して形小の運動場に死体を並べていった。



金平町大門 祖父(73歳)に聞いた話  Yさん

〔前日〕
・祖父は見ていないが,三ヶ根山の方が赤くなっていた。

〔当日〕
・一瞬で,家とかつぶれた。気づいたら家がつぶれていた。音もした。
・余震が何回もきた。
・余震がきた時,地割れから砂埃(ほこり)が出てきた。
・家の隣に地割れができた。
・家は全壊した。隣・近所も全壊。両隣の同級生2人は亡くなった。
・つぶれた後,家の前にわらで家を建てて住んでいた。
・祖父は床がつぶれて間に入っちゃったから,床の下になっちゃった。
・兵隊さんに朝6時くらいに助けてくれた。





星野さんの祖父母の友人の話

・形原駅から下は全部家がだめになってしまった。
・道路にテントを張った。
・被害にあった家は,戸も開かなくなってしまった。
・形原がとにかくひどかった(西浦・幡豆はあまりひどくなかった)
・昔は島と陸は離れていたけれど,地震のせいで地盤が盛り上がってしまって,海の潮が引いたときに島と陸がつながってしまった。陸から島へいけるような道に なってしまった。
・井戸の水が増えた。

 



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