とう かい しんそなえて かわ しんから まなぼう

かわ しん 体験たいけん調査ちょうさ

ホームページ「三河地震の記録・わすれじの記」を活用しての学習展開を形原中学校2年生が取り組んでくれました。
形原は三河地震での被害が大きかった地区のひとつです。子ども達の家族には、当時の体験された方も多くみえます。
その「体験」を聞き取り、レポートにしていました。ここには、その一部を掲載させていただきました。



三河地震について祖母から聞いた話   T・I

三河地震があったとき、祖母は兵庫県尼崎にいた。尼崎でも地震があった。その時は、形原で被害があったことは知らなかった。 そして、祖父が仕事に行ったあと、形原の親せきから電報が届いた。その内容は、「祖父の母死す。万難排して早く帰れ」と言う ものだった。もともと尼崎にいたのは、祖父の仕事の関係で、本家は、今私が住んでいるところだった。祖母の母が亡くなったと 知り翌日あわてて帰った。と言っても蒲郡付近の電車(汽車)は止まっていたため、蒲郡駅から歩いて帰った。音羽橋あたりまで きて自分の家があるかどうかを確認した。電報には、自分の家のことは書いてなかったから、自分の家は無事だと思い込んでいた。 でも家はなかった。大きな家で今の家の隣の道路は、もともと祖母の家の地所で、当然無事だと思っていた家は1階も2階もつぶ れていた。その原因は、今はうちの地所だけど、当時は隣に3階建ての家があった。その家の1階がつぶれ2、3階が祖母の家に 倒れてとまっていた。その家に押しつぶされたらしい。地震のとき、家の中に居たのは、祖父の父、母、弟の三人、弟さんが戦争 中栄養失調で入院して治り、退院して祖母のうちに住んでいたらしい。もし祖母がそこに住んでいたら間違いなく生きていなかっ たと言っていた。それから3カ月の間、祖母,祖父と親せきは、祖母の在所(形原)の家の隣のバラックに住んでいた。普通の人 は畑にテントをはって生活していたらしい。風呂がないためにドラム缶を風呂にした。遠くからも風呂に入れさせてくれと人が来 たらしい。何ヶ月かたって祖母のつぶれた家は、さら地になり、道路を広くする工事で土地がせばまった。そして祖父,祖母は尼 崎に帰った。 感想 今まで、こんなに詳しく地震の事を祖母から聞いたことがなくて、そんなことがあったなんて全く知らなかった。すごく大きな地 震だったのが、改めて分かった気がします。そのうちまた、こんな地震が起きると言われていますが、また同じようなことが起き るのでしょうか。祖母の話が聞けてよかったです。



祖父から聞いたこと   K・M

地震が起ったとき、どこにいたのか?  鹿島の自宅(工場) 形原のようす 形原小の、前の坂を下がった所の道(2分団の所の)から、いまのサークルKまでの道と、形北小付近の前野の2        ヶ 所が、いちばん被害が大きく、家がほとんどつぶれ、あたり一面が見わたせたようだ。 海のようす 形原漁港のあたりの、海の水位が高くなり、今の太陽の家やハーバーサイドゴルフのあたりの、水位がかなり低く        なっていた。 形原小の被害 東の校舎は全壊してしまった。西の校舎は半壊していた。北の講堂にはほとんど被害がなかった。 地震後の様子 1週間ぐらい余震が続いたので、家で過ごさず、麦小屋で寝食をしていた。2週間ぐらい、かたづけの手伝いをし        ていた。 地震前の様子 三河吉田の方で、三河地震が起こる前の年昭和19年12月10日にも、大きな地震があった。三河地震発生の数        日前に、三ヶ根の方がピカピカ光っていた。このことについて、空しゅうかどうか聞いても、空しゅうではないと        答えていた。



おじいちゃんの体験談  (現在66歳)  K・K

 小学校2年生で、空しゅうがあったから、電気を暗くして、えん側で寝ていた時に、大きな震れがきて、雨窓を開けよう思った けれど、開かなかった。そしたら、2階の水がめが、倒れて、上から、玄関の上から、水がたくさん降ってきた。1分ぐらい震れ が続いて、収まってから、玄関から出たら、雨が降っていなかった。雨が降っていると思っていたそうだ。地震がくる前から三ヶ 根山の方が、2日〜3日前から、稲光のように、光っていたらしい。三河地震が終わってからも、震度3〜4ぐらいの地震が、一 ヵ月ぐらい、続いていたらしい。家がつぶれるかもしれないので、畑の中に、テントを立てて、そこで3ヵ月くらい暮らしていた そうだ。形原の袋川の音羽橋のところが、平らだったのだけど、地震後盛りあがってしまったらしい。三河信用の前の駄菓子やさ んの家は、3階建てだったけど、2階になってしまったらしい。(今もある)駄菓子屋さんの、近くの八百屋さんの建物が全部つ ぶれてしまった。2階で寝ていたおばあさんは、電柱にしがみついて、助けを呼んでいたけど、つるつるすべってきて、地に足が ついたらしい。家は全部こわれたけど、電柱は倒れていなかった。音羽橋の周辺は、ほとんど家が全滅で、おじいちゃんの先生も、 亡くなってしまったそうだ。家の周り(3分団)は、1人しか亡くならなかった。三海の、隣の女の人がなくなった。家の屋根の 瓦が落ちたりして、家が傾いて、戸が閉まらなくなった。



近所の竹田さん(当時14歳)の体験談   K・T

 竹田さんは、当時、深溝のあたりに住んでいて、深溝小学校がすごくひどかったそうです。校舎が傾いたり、運動場に地割れが できたそうです。深溝小学校のあたりに、ちょうど断層が走っていて、学校裏には、1mぐらい地面がもりあがったそうです。余 震がすごく怖くて、小屋で、一ヵ月も寝たそうです。戦争もかさなって、すごく怖かったそうです。津波は、大地震だったのにも かかわらず一切なかったようです。ぼくの住んでいるあたりはひどく被害が多かったそうです。形原小の運動場は、死体置き場で した。夜中に地震が起きたので、寝ている人が多く、被害が広まったそうです。 感想  三河地震は、戦争とかさなって起きたので、あまり知らされなかったが、けっこう資料がありました。三河地震は、夜中 に起きたので昼間に起きていたら、死者はもっと減ったと思います。ぼくは、近々来るという、東海地震の準備をした方がいいと 思いました。三河地震は、規模の大きい地震だったけど、津波の被害がなかったのは、地形が関係していると思います。渥美半島 と西浦半島の、間はせまいので、波が弱くなったと思います。もし東海地震が来たら絶対に生きてやるぞという気持ちになりまし た。



おばあさんから聞いた話   Y・I

 当時、戦争中で、祖母は西浦の、今で言うと、魚市場を少し行った所で、飛行機などを作っていた時に、ドンドンいったので、攻 めてきたと、、思っていたようです。しょっちゅうドンドンいっていて、ついに12月には地震が来ました。その時には、トイレの かめが、ひっくりかえったそうです。そのせいで、テントみたいな小屋を作ることになり、 そこで1ヵ月ぐらい過ごしました。そ して1月になり、みんなが寝ている時、ものすごく大きな地震が来て、立って、居られなかったそうです。「津波が来るから、みん な山へにげろー」と、逃げようとしました。大きい音を、たててゴーゴーと、鳴りました。海を、見たら、津波ではなく、逆にすご い勢いで引いていきました。土地がすごく高くなったからです。魚市場は、すぐ海だったみたいです。



おばあちゃんから聞いた話  E・N

 当時小学校4年生 住んでいた場所は竹ノ谷町 地震の起こる前・・・形原の人が、海が「どす黒い」と言っていた。夜に地震が起きた。 地震が起きている最中・・・「ドーン」という、にぶい音がしてから、「ガタガタ」とゆれた。親とちがう部屋で寝ていて、戸を開け ようとしても、開かなかった。 地震の起きた後・・・[余震] 昼間でも余震が何度もあって、家に入れなかった。大きいのも、少しあった。でも、本震よりも小さい。 あぜが波のようにゆれた。[生活・その他] 1ヵ月、仮小屋で生活した。生活は、それほど、しにくくなかった。電気はつかない。水 は、井戸のポンプで押し上げるから使えた。火も、ガス管がないから(われることがない)使える。ラジオは聞けない。冬だから、日 が早く落ちて、明りに困る。戦時中だから、ロウソクもチョウチンも少ない。寒かった(おばあちゃんが1番、心に残っていること) 雪は降ったが、天気は良かった。お父さんは戦争に行っていたから、子どもは手伝い。形原温泉は、地震が起きてからできた。竹ノ谷 では、古い家がこわれたが、形原のほうでは新しい家も、たくさんの家がこわれた。形原小の運動場に、死んだ人が並べられた。



聞き取り調査(家の人に聞きました)  E・I

当時、西尾市に住んでいた、小学校1年生(現在金平町に住んでいる67歳 うちのおばあちゃん)の人に聞いたこと。三河地震は二回 あり、一回目は12月初めごろ、当時小学校1年生だったうちのおばあちゃんは、下校途中でした。その時、いきなり家から人が急いで、 出てきたので、どうしたのかと思いながら、家に帰ったそうです。家に帰ると家屋根のかわらが落ちていたらしく、その時、地震だとわ かったそうです。マグニチュードは、3ぐらいだったらしく、死者も、崩壊した家も、なかったけど、おばあちゃんはそのとき、恐怖心 をおぼえ、それから、余震が何ども続いたので、おばあちゃんたちは、わらで作った家で、次の1月13日の地震までの1ヶ月間、暮ら したそうです。1月13日の地震は、マグニチュード7.1という大きな地震で、死者は2、3066名、住居破壊2、3776戸、形原 町、西浦町での死者は237名にのぼったということです。 当時、金平町に住んでいた(旧制中学)1年生(現在も金平町に住んでいる74歳 うちのおじいちゃん)の人に聞いたこと。当時、 三河地震の時は、ちょうど第二次世界大戦中だったので、地震が起きた時、軍隊が、かけつけて来てくれたおかげで、死者が少なかった という。でも救助している時に、軍隊は、1名亡くなったということでした。(他にも言っていたけど、おばあちゃんと、ほとんど同じこ とを言っていたので、はぶきました。)



おじいちゃんとおばあちゃんにきいたこと  W・M

おじいちゃんとおばあちゃんに三河地震ことについて聞いたら、「20年1月13日」という日にちをすぐ言って、「もう忘れられん」みた いなことを、言っていた。おばあちゃんは、細かい事を覚えていて、地震の30日前から、家の外で、家族で、寝ていたそうです。3日前か ら、外で寝ていた理由は、余震が続いていて、「いつ、大きい地震が、起きるか」という話があったからだったそうです。夜中、3時半ぐ らいに、すごい音がして、すごく振れて、飛び起きて、みんなで逃げたそうです。おじいちゃんの家は、地震でこわれてしまったけど、テ ントで、寝ていたので、助かったそうです。そのときに、三ヶ根山の方向に、青い火柱を見たそうです。おばあちゃんは、小学校6年生で、 その前の年の12月、小学校にいる時に、三河地震ほどではないけど、けっこう大きな地震があって、地震が怖いことをよく知っていて、 揺れている時には、机の下に、かくれたり、ふとんの中に入ることは、できないと言っていました。大きくゆれている時は、自分の体を ささえるだけが、精一杯だということです。3日予震が、続いたから、もう大丈夫だと思って家の中で、寝ていた人が、たくさんいたそ うです。地震で、家が倒れて、亡くなった人が、たくさんいたそうです。形原小学校の運動場は、亡くなった人の死体置場になっていた そうです。戦争中で、軍の人たちがいて、その人たちが、指揮をとって、死体をならべたり、身元確認などをやってくれたそうです。



おとうさんにインタビュー  I・I

 家の前の、林光寺の坂は、平らな道が坂になった。私の家の前が、海だった。戦争中だったため、男の人が戦争にいっていたため、女 の人や、子どもが後片付けをした。地震で死んだ人は、今の形原小学校に、安置してある。地震で、ほとんどの人が、家の下じきになり、 死んでしまった。今では、ほとんど知っている人はいません。形原町の被害は大きく、死者は211名 私の家の周りは、ほとんど海で、 地震と津波で、海が沈んでいった。実際に、知っている人は、もうほとんどいません。



死んだおじいちゃんがお父さんにした話    T・M

 2階に住んでいた人が、フトンを外にほかって、2階から飛び降りた。2階の家が、いっきに平屋になった。3階の家が、2階の家に。 感想 ふとんをクッションにするなんて、すごい知恵だと、思いました。あきらめず、一生懸命生きのびようとするなんて、すごいと思 います。地震には、本当気をつけたいです。



三河地震の被災者インタビュー   H・I

 鈴木てる 84歳 (祖母) 当時形原町の2分団内に住んでいた。 地震前・・・前年の12月頃から、予震がたびたびありました。中でも、一度大きい地震もありました。けれど、建物が倒壊する程では ありませんでした。前日の日は、雲行きが怪しい日で、友人と銭湯に行った帰りに、みんな、気持ちが悪いということがありました。も しかしたら、敏感に、変化に気づいていたのかもしれません。 地震当日・・・寝ている時に、突然、体が跳ね上げられるような感じでした。怖くてうつぶせになって目をつむっていました。目をあけ たときには、家の下じきになっていました。2階がおちてきていたのです。1階に寝ていた私は、埋まってしまいました。2階にいるは ずの、父の声が、聞こえましたが、話せませんでした。「はしごを貸してくれ」と言っていました。きっと2階にいたので、下りられな いと、思ったのでしょう。実際は、使わずに下りることが、できたようです。その後、近所の警防団の人たちが、助けにきてくれました。 警防団というのは、組によって作られた、もしものときに協力する人たちです。助けようとしてはくれましたが、声をだすことができな かった私をみつけるのは、難しかったらしいです。私の上を何度も通りながら、結局1時間以上あとに、助けてもらえました。助けだし てもらえた後、あたりを見ると、ずいぶんと変わっていました。家が将棋倒しのように、つぶれていました。立っていたのは、ほんの少 しだけです。その立っている家でもずいぶんとかたむいていました。海の方には、地面の割れ目もみえました。 地震の後・・・その後、家が使えない人は、2分団の、稲荷神社のあたりに、船の帆で、テントを作って、寝とまりしました。食料は、 隣組に、わけてもらっていましたが、足りなかったので、買いに行きました。知りあいに、国鉄に勤めている人がいたので、切符をもら って、新潟県まで行きました。塩をもっていき、かわりに、米をもらってきました。長旅で、いろいろ苦労をしました。50日ぐらい、 仮のテントで、過ごした後で、政府からもらった、木材を使って、父の友人に頼んで、平屋を作ってもらいました。だんだんと、町全体 も、復興していきました。 全体のこと・・・もう何十年も前のことなのに、よく覚えていたと、我ながら感心します。怖かった経験は、忘れがたいものだと、改め て感じました。 インタビューをおえて・・・大きな地震は、そんなにも、怖いものなんだと思いました。東海地震が来るのが、怖いです。今回、思った のは、近所の人たちの、力の大きさです。災害が起こったときには、警察や救急隊の人たちは、全てを、みられることはないと思います。 そう考えると、近隣の人々で団結し、助け合っていくことが、重要になるんだと思いました。「幻の大地震」に学ぶことは、多いと思い ます。「幻」のままにせず、少しでも、形として残していくと、良いと思いました。それと、地震をあなどらず、気をつけていこうと、 改めて感じました。



おじいちゃんから聞き取り  T・M

1945年1月13日 三河地震がおこる前に、ドーンと音がした。ばくだんの実験工場が豊橋にあるのでときどき音がするから、気にしないで 寝ていて、何分かした後、さっきよりすごい音で、ドーンという音がしていきなり、下がったように揺れたので、おじいちゃんは、出ら れなくなってしまいました。窓がもろくて、こわれた所に揺れがおさまった時に、逃げれたそうです。家から出たら、ほとんどの家がこ われていた。三ヶ根山のほうを見たら、いきなりすごい光がでて、またすごい余震がきて、逃げていなかったら、つぶされていたという ことです。こざわやという文房具やの前の道路は、実は、海だった。地震でいきなり陸が表れて水が入ってこなくなって、しかたないか ら、うめたてて、陸にしたそうです。  



うちのおじいちゃんに聞き取り  T・M

今の年齢、71歳、当時の年齢12歳(小学校6年生) 地震が起こった時のおじいちゃんの話と状況は、「夜中の3時頃、ものすごい揺れがして目が覚めたら、天井が落ちてきて手がはさまっ てしまってねぇ」「なんとか手の下にあったふとんをやぶって手をぬいたんだよ。そしたらおじいさんのお母さんが助けてくれたよ。」 「その時、家にいたのは誰ですか。」「おじいさんと兄弟3人とおじいさんのお母さんとおばあさんだよ。おじいさんとお父さんは戦争 で家にいなかったからねぇ。でも残念なことに、おばあさんはこの地震で亡くなってしまったよ。」



私のひいおばあちゃん(曾祖母)に聞きました。  H・O

 三河地震があった時、私のひいおばあちゃんは、川のふちに住んでいたそうです。地震がきて、ゆれた時にひいおばあちゃんの家が、 川へずり落ちていってしまったらしく、ひーおばあちゃんの家は、水びたしになってしまったので、漁師さんの所へ行って、船の帆をも らって、テントを作り、そこで、近所の人達といっしょに暮らしたそうです。住んでいるうち、子供も泣いたり、あばれたりするように なって、ケンカが始まるようになってしまったそうです。私のひいおばあちゃんはススキを刈ってきて、それを小屋にして住んだそうで す。ひいおばあちゃんは毎朝「とよかわしょうこう」という所にひいおばあちゃんの弟にお弁当を作っていて、おみそ汁を作っている時 に地震がきて、おみそ汁が入っていたナベは、地震で揺れているため“ちゃぷちゃぷ”になってしまい、火事になると思い、みそ汁で火 を消して、火事をふせぐことができました。(このころは、「くど」といういうのを使っていました。)それから、いそいで外に出たけ ど、地われがたくさんあり、そこから、青い火がメラメラと出ていたそうで、ひいおばあちゃんは、とてもびっくりしたと言っていまし た。そして、電線からも青い火がパラパラと落ちてきて、あぶなかったそうです。ひいおばあちゃんのとなりの家の人が 、家の下にう まってしまい、ひいおばあちゃんが消防車を呼んで、隣りの人は、裸になって、なんとか、生きて出てこられたそうです。避難をしてい る時は、みんなで、お風呂に入ったりして、一緒に行動をしていました。その時も子どもが大泣きしたり、あばれたりで、とても大変だ ったそうです。私のひいおばあちゃんは、三河地震を体験したけれど、私のひいおじいちゃんは、どうしてたの?と聞くと、ひいおじい ちゃんは、そのころ、戦争に行ってたそうで、わたしのひいおじいさんは、地震ではなく戦争を体験していたのでした。



祖母にインタビューして  Y・N

 昭和20年1月13日午前3時頃(午前3時38分頃)地震発生、外に出ようとしたが家が傾き、障子が動かなかった。なんとか開けて、父に おばれて(負われて)外に出ると母屋が潰れていた。隣のおばさんが「助けて」と叫んでいたが、その後亡くなられた。母屋では、祖母 と弟と姉が寝ていたので、下敷になってしまった。外から名前を呼ぶと姉が、「痛い、痛い」と泣いていた。生きているとわかって嬉し かった。でも、ガレキは思うようにとれず、夜が明けて、やっと消防隊が助けにきてくれた。姉は足をはさまれて、半年くらい歩けなか った。祖母と弟は、亡くなってしまった。地震前、12月頃から遠くの方で「ドーン、ドーン」と大砲のような音が続いていた。「地震発 生の時刻がもう少し遅かったら朝食の準備で、火を使っていて、火災などの二次災害も起きていたかもしれない。」と話してくれた。調 べてみると、火の粉のような物が、出現していたということもあった。これは、電磁波の影響か、見まちがえたという説があり、わかっ ていない。



祖母にインタビューしました。  Y・O

 当時雪が積もっていた。夜明けでかなり寒かったらしい。形原小(小学校)の東の方はほとんど家が壊れた。形原にいた兵隊で、死ん だ人は、学校にならべておいた。地面が二階のとこまであがったところもあったらしいです。一番ひどかったところは、辻だったそうで す。祖母の家もつぶれたそうです。下からつきあげられるようにして、いっしゅんにしてつぶれた。「一階だったから助かった、二階だ ったら死んでいた」といって言いました。仏壇がたおれてきた。でも丸太もたおれてきて、ささえになって助かったそうです。となりの 家は、つぶれていなくて自分の家だけつぶれていたので、となりの家の、のこぎりとかを借りて、まだ家の中にいる人を、助けたそうで す。それからのくらしは、板切れなどを集めて、壁にして、畑でホームレスみたいなくらしをしたそうです。食事はちゃがまと、おかま がおちていて、おかまにごはんが入っていたので、それを食べてすごしたそうです。水は井戸があったので、それを利用していた。大き なものがおちてきて足をけがした人がいたそうです。
感想  三河地震は、夜で、しかもかなり大きい地震なので、かなり大変だったと思います。もうすぐ来るかもしれない東海大地震もい つ来るかわからないので、夜とかだと大変なので、いつきてもいいように、準備をしときたいです。



聞き取り調査   T・K

 おじいちゃんが小学4年の時(昭和20年1月13日夜明け)おじいちゃんの母、姉、弟、妹、祖父が亡くなったそうです。その時おじいちゃ んの家は、借りていて、2階建てだったそうです。おじいちゃんと、ひいおじいちゃんは、2階で寝ていて、他の人は下で寝ていたそうで す。でもおじいちゃんの妹は、ちょうど間にいて、助かったといっていました。それに、祖母が抱きかかえて亡くなっていたと言っていま した。おじいちゃんの家では、5人亡くなり、1軒に5人も亡くなったのが、最大だった、祖父からおばあちゃんが、聞いたと言っていま した。他にも、兵隊の人も亡くなったそうです。形原の町は、家はほとんど倒れていて、1分団の方(時計屋付近)は1軒おきに、倒れて いた。春日山の記念碑の所に、日にちや死亡者数が書いてあり、死亡者は、1つの大きい穴にいっしょに入れて焼いた。学校は、死体がこ ろがっていて、コンクリートは、上下になっていた。死者は209人と言っていました。 感想 三河地震の発生した時刻が、深夜だったのが良くなかったと思います。夜だと外が暗いので、まわりがよくみえないからです。今、 授業で地震の事などやっています。人から聞く話などでは、1階より2階にいた方が良いとよくいわれます。地震が起きた時に、1階が2 階につぶされて、下にいる人は、死んでしまう場合あるからです。地震は、こなければ良いけど、やっぱり来てしまうものなのがすごく いやです。今の生活を出来ればつづけていきたいです。地震が起きた時のために、今いろいろ出ています。(製品)昔のように人がたく さん亡くならないために、地震対策などが必要です。私の住んでいるところは、西御屋敷なので、地震が、三河地震のように起きたら、 やばいです。これから、もっと地震対策をしていこうと思います。インターネットでもたくさんのっていました。



おばあちゃんに聞いたこと   Y・H

 それは、おばあちゃんたちが丁度眠っている、真夜中のことでした。突然グラグラと、したので目が覚めて、おばあちゃんのお父さん とお母さんが、「どうせ死ぬならみんなで死のう」と言い、家族で円くなっていたら、揺れが治まりました。そして、家の中は危険なの で、外に出ていたら、地球の底からか、海の向こうの方から、ドーンとすごくでかく、恐ろしい音がして、その後にグラグラグラーと、 何回も揺れました。(余震)外は雪が降っていたので、それからは、小さな小屋を建てて、寝たり起きたりしていたそうです。そして、 地震の合間をみては、食べ物などを取りに、家の中に入っていきました。そのころ、おばあちゃんは大宮に住んでいて、大宮の方は、つ ぶれた家は、なかったそうなので、家族八人全員助かりました。でも形原は、すごくひどかったと言っていました。地震が、稲妻のよう に走った所の家は、つぶれてしまいました。揺れ方は、上下に揺れたそうです。ラジオでは、戦争で戦う意欲がなくなってしまうので、 地震があって死者が大勢でたことは言いませんでした。



三河地震について聞き取り 

 おじいちゃんとおばあちゃんに話を聞いてみました。おばあちゃんは、当時6歳ぐらいだったそうです。なので、あまり覚えていない そうですが、とにかくスゴイ揺れで、小さいながらに怖かったことを覚えているそうです。家の裏の道(今もある)は、元々平らな道だ ったそうです。で三河地震のせいで、いっきに道が2mくらい上がって、坂道になったそうです。地震の時、とても寒くて、こごえてい たそうです。 おじいちゃんに聞いた話 おじいちゃんは、当時小学校6年生だったそうです。なので、けっこう詳しい事まで、覚えていたので、たくさ んの話を聞くことが出来ました。地震の起こる前に、震度3くらいの、けっこう強い地震が、ずっと続いていて、1週間くらいすごく静か (地震なし)の日が続いていたと思っていたら、いっきに地震が来たそうです。地震が起こる前にあった地震で、家にあった漬物の石が、 いつも落ちていたそうです。地震の起こる前の地震が、続いていたころ、大砲のようなドンドンッという音が、すごく鳴っていて、みんな は、戦争中だったので、大砲の音だと思っていたそうです。おじいちゃんの知り合いだった、おじさんが居たそうで、その人は、漁師で、 海で漁をしていたら、三ヶ根山から、火柱がスゴク出ていたので、とんで帰って来て、教えてくれたそうです。その次の日に、地震が起こ ったそうです。地震が起こって、すぐに外に出てみたら、家のまわりが、水びたし(50pくらい)海みたいになっていたそうです。近く の工場は、1階の柱が地中にささって、くいこんでいたそうです。地面に屋根があったそうです。その当時、おじいちゃんは、「お経」を 習っていて、たくさん変な現象が起こっていることを、お寺の、おばさんは、知っていたので、何か起こるかもしれないので、おじいちゃ ん達に、服を着て寝たり、いろいろ話してくれたそうです。その当時、小学校に、たくさんの兵隊さんが、訓練中だったそうで、地震によ って、300人ちかくの兵隊さんが、校舎(すごく古かった)の下敷になって、けがをしたり、亡くなった人もいたそうです。おじいちゃ んのおじいさんとおばあさんが、軽いケガをしたので、リヤカーに乗っけて、手当をしに行ったら、たくさんケガ人がいすぎて、何もして もらえず、帰ってきたそうです。
・話を聞いて、思った事、分かった事
話を聞いて、あらためて、どんだけ大きな地震なのか、前よりすごく分かった気がします。多くの、前兆現象を、色々な人から、聞いてい たので、ケガ1つなく、すごく運がよかったと思いました。外が、水びたしだったのは、当時おじいちゃんの家に、井戸があったらしいの で、井戸の水が、いっきに上に持ち上げられて、井戸の水で水びたしになったと思いました。もうすぐ地震が起こると思うので、前兆現象 がでるかも?しれないので、地震にそなえて、家族で準備しようと思いました。話を聞いて、地震の怖さが、よく分かりました。おばあち ゃんとおじいちゃんに、たくさん話を聞けて、本当によかったです。



三河地震見聞録(おじいさんの手記)  T・O

 1945年1月13日三河地方に、地震が起きた。午前3時頃で、震れは蒲郡では、震度五ぐらいであった。形原の町に入ってみたが、震度 6〜7くらいの、震れであったであろう。家屋の損害は、半壊は10棟に対して4棟位で、全壊は10棟に対し2棟と記憶、中には三階の家の1階 がつぶれて、2階となり、かたむいていた。町中の道路は、石垣が壊れて散乱し、塀が全壊したのを、2,3ヶ所見受けた。建築物の下敷と なって、人員の損害は、駐屯していた軍人が100名程、死亡したのを見受けた。尚、外に多数の人員の死亡も聞いたのである。友人も、こ の時に亡くなった。ある神社の境内では、灯篭が倒れ、台座のみとなっていた。地面は、そこかしこに、地割れが15センチ位、口をあけて いた。段差も見受けられた。後年、この地震で2000人の死傷者がでたと聞いた。天候は、うす曇り日で、西日の太陽に、半径の輪がかかって 居り、町の古老が、悪い事の起きる前ぶれであると教えてくれた。気味悪く忘れがたい。町の人々は、動揺もなく、後かたづけをして居たの を、見受けられた。或る会社から、救急隊の看護班をくり出して、町の人々の、救助の一役を、になったと聞いた。後年、この地震は、報道 以上の損害であったと聞く、驚くほかない。